2012年8月3日金曜日

機微。

みなさま、こんにちは。
大変長らくご無沙汰でした。
一ヶ月ほど、文章を書けなかったのです。何を書いてもまとまらず。。。
本日は今の思いをそのまま記します。




ふとしたきっかけで、私の発した言葉が誰かを傷つけていたことを知り、なかなか新たな一歩を踏み出せずにいました。ここでの「言葉」はメールであったり、口から発した言葉であったりしました。
まったく自分の意図せぬところでしたが、自分がどのように考えていようとも、その考えの受け取め方は相手次第なのだと、今更ながらに思いました。

敬愛する作家が、「自分には自分の、人には人の価値観がある。価値観の相違は細かなすれ違いを生み出し、そのうちのいくつかの組み合わせは大きな誤解へと発展していく」と記した本がありましたが、私はまさにその渦中に居て、愚鈍なことに、渦中に居ることにすら気づかなかった、ということです。

彼はこう続けています。「そのように誤解され、非難されるのは決して愉快な出来事ではない。心が深く傷つくこともある」と。
この一ヶ月、まさにこの状態であった訳ですが、傷ついた故に書けなかったのではなく、私がそう感じる以前に、私も人を不愉快にし、傷つけていたのだという事実が、ものを書けなくし、うまく言葉を発せなくしていました。

「人と違うことを感じ、違う言葉を選ぶことができるからこそ、(僕は)固有の物語を書き続けることができるわけだ」「心の受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって支払わなければならぬ代価である」

彼は作家で、彼の自立性を''物語を書き続ける''という行為で表現しており、作家でない私は、''私という人間で、この人生を生き続ける''という行為で表現しているのだと思います。




私は明日もあさっても、鼓動が止まるまで私であり、その日までたくさんの人に出会い、メールを送ったり、言葉を交わしたりするでしょう。
また誰かを傷つけるのではないか、今も既に傷つけているのではないか、そうと考えると、とても怖い。代価を支払うことに恐れを抱いているのです。

何かを発し続けている限り、誰も傷つけずに生きることは困難で、これからも意図せぬ場所や状況で、同じようなことを繰り返してしまうのかも知れません。
そのときにはせめて、突然の痛みにおののかず、「これは私が当然支払うべき代価なのだ」と、きっちりと受け止めることができる人間になっていたい。


…うまく締めくくることができませんが、これも今の思いそのままです。
私は自分以外にはなれない。ならば「常に少しはマシ」な自分になりたい。
そう思っています。


それではみなさま、また次回。










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